JLPT N1 – Reading Exercise 40
教育の現場に携わるものとして「1」以前から気になることがあった。学生たちと何を議論していても、たいていだれかが「私はこう思うけれど、人それぞれ、いろいろな考えがあると思うし、それでいい」という趣旨の意見を述べ、そのとたん、議論が成り立たなくなることである。「人それぞれ」で「何でもあり」となれば、社会問題の大半が個人の好みと選択の問題に矮小化されてしまう。ゼミでは「2」「人それぞれ」を禁句にするなどの対策をとってはみたものの、私は学生の間に蔓延する個人志向的考え方にきちんと対峙できずにいた。そのようなとき、ある授業で学生たちが書いたリポートを読んで、頭を殴られたようなショックを受けた。
このところ過失とはとうてい思えないような悲惨な交通事故のニュースが相次いでいる。そこで交通事故や被害者の人権について、これから免許を取得する若い人に考えてもらいたくて、二木雄策氏の『交通死』という本の読書リポートを課した。大学生だった二木氏のお嬢さんは、自転車で交差点を横断中、赤信号を無視して突入してきた自動車にはねられて亡くなった。加害者の女性は執行猶予付きの判決で刑務所に入ることもなく、また、損害賠償の交渉も支払いも保険会社が代行した。
加害者の信号無視で被害者は命を奪われたのに、加害者は(少なくとも形の上では)以前と変わらぬ生活を送ることができるのだ。加害者に手厚い現行の諸制度は、「3」人の命よりも車(イコール企業)を重んじる社会だとの著者の主張には説得力があると私は思っていた。
ところが少なからぬ学生の反応は予想をしないものだった。「加害者がかわいそう」だ
と言うのである。被害者の立場からの主張のみが述べられているのは「客観性に欠ける」という。私は「4」頭を抱えてしまった。二木氏の文章は、娘を失った父親の沈痛な思いがせつせつと伝わってくるものの、決して激情に駆られて書かれたものではない。むしろよくここまで冷静に書けるものだと感心するくらいなのだ。
もちろん加害者には加害者の人生がある。しかし学生たちは、その人生に豊かな社会的想像力を働かせるわけでもなく、単に、被害者側の見解だけでは一方的だと主張する。杓子定規に客観的・中立的立場を求めなければいけないと思いこんでいるようなのだ。まるで立場の異なる二者の間で意見の対立が見られた場合には、足して二で割ればちょうどよいとでも言わんばかりに。
なぜ学生たちは、加害者と被害者の対立図式にこだわり、著者が訴える問題の社会的広がりに気づかないのか。もどかしい思いでリポートを読むうちに合点がいった。例の「人それぞれ」である。
あらゆる意見が私的なものであれば、娘の交通事故死を経験して「くるま社会」の異常さを訴える父親の主張も一つの個人的立場に過ぎず、その意味では加害者の立場と等価なのだ。主張の対立のなかから、あるべき社会の姿を模索する努力を放棄したとき、社会正義は足して二で割るというような手続き上の公平さに求めざるを得ない。
(小笠原祐子「『何でもあり個人主義』の退廃」2000年7月11日付朝日新聞朝刊による)
せつせつと:人の心を動かすほど強く
もどかしい:思うようにならなくてイライラする
合点がいく:意味がよく分かる