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JLPT N1 – Reading Exercise 64
世間せけんでは、いま、表現ひょうげん教育きょういくということが盛さかんに叫さけばれている。子供こどもたちに、どうにかして、「豊ゆたかな表現力ひょうげんりょく」「誰だれとでも話はなせるコミュニケーション能力のうりょく」を身みにつけさせようと、親おやも教師きょうしも躍起やっきになっている。子供こどもの方ほうから見みれば、表現ひょうげんを強要きょうようされているとさえ言いえる「1」状況じょうきょうだ。だがどうも、教おしえる側がわも、子供こどもたちの方ほうも、「表現ひょうげん」ということを無前提むぜんていに考かんがえすぎていないか?いや、いったい、何なにをそんなに伝つたえたいというのか?私わたしはここ数年すうねん、演劇えんげきのワークショップ(体験型たいけんがたの演劇えんげき教室きょうしつ)を、年間ねんかんで百ひゃくコマ以上いじょう、全国ぜんこくで繰くり返かえして開催かいさいしてきた。教育きょういくの門外漢もんがいかんに、このような依頼いらいが殺到さっとうするのも、表ひょう教育きょういく隆盛りゅうせいの一ひとつの現あらわれであろうか。ただ、私わたしが、そういった場ばで子供こどもたちに感かんじ取とってもらいたいことは、表現ひょうげんの技術ぎじゅつよりも、「2」「他者たしゃと出会であうことの難むずかしさ」だった。どうすればコミュニケーション能力のうりょくが高たかまるかではなく、自分じぶんの言葉ことばは他者たしゃに通つうじないという痛切つうせつな経験けいけんを、まず第一だいいちにしてもちいたいと考かんがえてきた。高校こうこう演劇えんげきの指導しどうなどで全国ぜんこくを回まわっているといつも感かんじるのは、生徒せいと創作そうさくの作品さくひんのそのいずれもが、自分じぶんの主張しゅちょうが他者たしゃに「伝つたわる」ということを前提ぜんていとして書かかれている点てんだ。私わたしは、創作そうさくを志こころざす若わかい世代せだいに、「3」演劇えんげきを創つくるということは、ラブレタ-を書かくようなものだと説明せつめいする。「俺おれは、おまえのことがこんなに好すきなのに、おまえはどうして俺おれのことが分わかってくれないんだ」という地点ちてんから、私わたしたちの表現ひょうげんは出発しゅっぱつする。分わかり合あえるのなら、ラブレターなんて書かく必要ひつようはないではないか。日本にほんはもともと、流動性りゅうどうせいの低ひくい社会しゃかいのなかで、「分わかり合あう文化ぶんか」を形成けいせいしてきた。誰だれもが知しり合あいで、同おなじような価値観かちかんを持もっているのならば、お互たがいがお互たがいの気持きもちを察知さっちして、小ちいさな共同体きょうどうたいがうまくやっていくための言葉ことばが発達はったつするのは当然とうぜんのことだ。それは日本にほん文化ぶんかの特徴とくちょうであり、それ自体じたいは、卑下ひげすべきことではない。明治めいじ以降いこうの近代化きんだいかの過程かていも、価値観かちかんを多様化たようかするというよりは、大おおきな国家こっか目標もくひょうに従したがって、価値観かちかんを一ひとつにまとめる方向ほうこうが重視じゅうしされ、教育きょういくも社会しゃかい制度せいども、「4」このようにプログラミングされてきた。均質化きんしつかした社会しゃかいは、短期間たんきかんでの近代化きんだいかには好条件こうじょうけんだ。日本にほんは明治めいじの近代化きんだいかと、戦後せんご復興ふっこうという二ふたつの奇跡きせきを成なし遂とげた。しかし、私わたしたちはすでに大おおきな国家こっか目標もくひょうを失うしない、個人こじんはそれぞれの価値観かちかんで生いき方かたを決定けっていしなければならない時代じだいに突入とつにゅうしている。このような社会しゃかいでは、価値観かちかんを一ひとつに統一とういつすることよりも、異ことなる価値観かちかんを、異ことなったままにしながら、その価値観かちかんを摺すり合あわせ、いかにうまく共同体きょうどうたいを運営うんえいしていくかが重要じゅうような課題かだいとなってくる。いま、あらゆる局面きょくめんで、「5」コミュニケーション能力のうりょくが重視じゅうしされるのは、ここに原因げんいんがある。「分わかり合あう文化ぶんか」から、「説明せつめいし合あう文化ぶんか」への転換てんかんを図はかろうということだろう。だが、ここに一ひとつの落おとし穴あながある。表現ひょうげんどは、単たんなる技術ぎじゅつのことではない。闇雲やみくもにスピーチの練習れんしゅうを繰くり返かえしても、自己じこ表現ひょうげんがうまくなるわけではない。自己じこと他者たしゃとが決定的けっていてきに異ことなっている。人ひとは一人ひとりひとり、異ことなる価値観かちかんを持もち、異ことなる生活習慣せいかつしゅうかんを持もち、異ことなる言葉ことばを話はなしているということを、痛いたみを伴ともなう形かたちで記憶きおくしている者ものだけが、本当ほんとうの表現ひょうげんの領域りょういきに踏ふみ込こめるのだ。(平田ひらたオリザ「緩ゆるやかなきずな9」2001年にせんいちねん6月ろくがつ27日にじゅうしちにち付づけ毎日まいにち新聞しんぶん朝刊ちょうかんによる)